遠い世界 5 


ゼロからの招待状



政庁内にある、ジェレミアの執務室の扉を開けたヴィレッタの目の前を、白いものがすっと掠めた。
それが何かわからず、滑空するように通り過ぎたそれを目で追って、ヴィレッタは、床に散らばる無数の紙飛行機に、顔を顰めた。
そしてまた一機、カサリと乾いた音を立てて、床に紙飛行機が着陸する。
それを拾い上げて、飛行機の形に折られた紙を、広げて見れば、それがジェレミアに回されてきた重要書類であることは、一目瞭然だった。

「ジェレミア卿!」

部屋の奥の執務用の机に、片肘をついたジェレミアは、今しも、手にした紙飛行機を飛ばそうとしている。

「なにをしているのですか!?馬鹿なことはお止めください!」

足元の、紙飛行機と化した書類を踏みつけないように注意しながら、ヴィレッタは呆けている上官にツカツカと歩み寄って、手に持っている紙飛行機を取り上げた。

「なにをする・・・?」
「それはこっちの言葉です!貴方の方こそ仕事もしないで、一体なにをしているのですか!?」

ヴィレッタに「仕事」と言われて、ジェレミアは虚ろな表情で溜息を吐いた。

「・・・ジェレミア卿?・・・どこか具合でも悪いのですか?昨日も視察にお出かけになったまま、政庁にお戻りにならないで帰ったそうではないですか・・・」
「別に、どこも具合など、悪くはない・・・」
「では・・・?」
「仕事をする気になれないだけだ・・・」

真面目で、仕事一筋のジェレミアの言葉とは思えない、その言葉にヴィレッタは耳を疑った。
驚愕の表情を浮かべているヴィレッタには、まったく関心を示さず、ジェレミアはぼんやりと虚空を見つめている。
その様子は、どう見ても尋常ではない。
ジェレミアの目の前に手を翳して、それを上下に振ってみても、ジェレミアの瞳は反応を示さず、それが見えていないようだった。

「あ、あの・・・なにか、あったのですか?」

ヴィレッタに、心配そうな声でそう言われて、ジェレミアは、深い溜息を吐いた。
昨日、視察の帰りがけに、偶然通りかかったアッシュフォード学園の近くで出逢った少女の顔が、ジェレミアの脳裏に張り付いて離れない。
その顔を思い出す度に、鼓動が早くなり、締め付けられるような胸の痛みを、ジェレミアは持て余していた。
「ルルーシュ」と名乗った少女の、気品のある優雅な笑顔が、忘れかけていた、ジェレミアが過去に出逢った、一人の女性の顔を思い出させた。

―――マリアンヌ様・・・。

少女の顔は、ジェレミアが嘗て、自分の主君と決めた后妃に、よく似ていた。
姿形だけでなく、その仕草すらも、完全に重なるほどに、生き写しだった。

―――まさか、生きておいでだったのか・・・?

そんなはずはない。
后妃マリアンヌは、八年も前に亡くなっている。
それに、ジェレミアの知っているマリアンヌは、少女ではない。歳が違いすぎた。
だから、間違いなく別人だ。
血縁者の可能性も考えたが、マリアンヌの子供は二人ともブリタニア本国にいるはずだし、それに、ジェレミアの記憶が正しければ、マリアンヌの娘は、昨日出逢った少女よりも、もっと年下だ。
マリアンヌの娘であるはずがない。

―――きっと、他人の空似だ。でなければ、私の思い違いかもしれない・・・。

夕暮れ時のことでもあったし、八年も前の記憶など、確かに当てにならない。
ジェレミアは、無理矢理そう思い込もうとしたのだが、それでも少女の顔が脳裏から消えることはなかった。
ジェレミアが敬愛して止まない、今は亡き后妃に似た少女との出会いは、ジェレミアに大きな衝撃と混乱を与えた。
とても仕事をする気になどなれずに、昨日は、そのまま私邸に帰ってしまったほどだ。
ジェレミアの脳裏に浮かぶ少女の顔が、薄れるどころか、一晩経った今日は、更にはっきりと刻まれている。
胸の内のざわめきも、抜き差しならないものになっていた。
それがなぜなのか、ジェレミアにはわからない。
ジェレミアの記憶が間違っていたとしても、少女の面差しは、どこかマリアンヌに似ているのだろう。
しかし、それだけの理由で、これほどまでに自分の気持ちが掻き乱されるとは、思えなかった。

―――もう一度会って、確かめたい。

そう思っても、ジェレミアは少女の名前しか知らない。
学園に直接確認することも考えたが、それは躊躇われた。
たった一度会っただけの、しかも、二言三言しか言葉を交わしていない少女の身辺を、こそこそと嗅ぎまわるような真似は、ジェレミアの人一倍高いプライドが許さなかった。
それにもし、そんなことが、うっかりと誰かの目に止まり、少女の耳に入らないとも限らない。
そうなってしまったら、ストーカー紛いの変態と勘違いされて、嫌われてしまう可能性も考えられる。
なにしろ、相手は高校生なのだ。
自分の年齢を考えれば、高校生の少女に付き纏うのは、やはり異常だ。
万が一にでも、そんなことが、部下や政庁内の誰かに知られたら、ジェレミアはいい笑い者になるだろう。

「私は一体どうすればいいのだ・・・」

髪を掻き毟るようにして、頭を抱えたジェレミアを、ヴィレッタは不審そうに見つめている。

「あの・・・一体、どうしたと言うのですか・・・?」
「・・・ヴィレッタ。・・・悪いが、今日はもう帰る・・・。後は適当に処理しておいてくれ・・・」
「ちょ、ちょっと待ってください!具合が悪いわけでもないのに、早退とは一体どういうことなのですか!?」
「・・・では、私は具合が悪いことにしておいてくれ・・・」
「そ、そんな、仮病を使うようなズルは許されません!と、とにかく、定時までは、ここにいてもらわないと、他の者への示しがつきません」
「私は、とても仕事ができる状態ではないのだ・・・」
「・・・なにが、あったのですか?よろしければ私に話してはもらえませんか?」
「・・・お前に話したところで、どうになるものでもない。これは私の問題なのだ・・・。だから、頼むから、私のことは放っておいてくれ」
「しかし・・・仕事に支障がでるようでは、放っておくわけにもいきません。・・・なにか悩みでもあるのでしたら、誰かに話せば、少しは気持ちが楽になると思うのですが・・・?」

ヴィレッタに言われて、ジェレミアはまた溜息を吐いた。
いくら相手が信頼できる部下でも、いい歳をした自分が、一度会っただけの女子高生に近づく手立てを模索して、仕事が手につかないほどに悩んでいることなど、言える筈がない。

「た、頼むから、なにも聞かないでくれ・・・」

沈んだその言葉は、ジェレミアの本心だった。
しかしヴィレッタは得心がいかない様子で、ジェレミアを窺うように、じっと見つめている。
一人で勝手に苦悩して、顔を青くしたり赤くしたりしているジェレミアは、これまでに見たことがないくらいに、様子が異常だ。
「なにも聞かないでくれ」と言われても、仕事が進まないのでは、放っておくこともできない。
そもそも、ヴィレッタは仕事のために、この部屋を訪ねたのだ。

「あの・・・」
「・・・なんだ、まだ私に何か用があるのか?」
「実は、例のテロリストの件で・・・」
「悪いが、その話は聞きたくない。とても仕事のことを考える気になれないと、さっきも言ったはずだ・・・」
「し、しかし・・・これは総督からの直接のご命令ですので、一応はお耳に入れておいていただがないと・・・」

総督の命令ならば、仕方がない。
ジェレミアは溜息を吐いて、面倒くさそうに、覇気のない顔を上げた。
ヴィレッタの言った、「例のテロリスト」と言うのは、今巷を騒がせている、「ゼロ」と名乗る正体不明のテロリストのことだろう。
本当の名前もわからなければ、その素顔を見た者もいない。
このエリアの総督であるクロヴィスには、その「ゼロ」の捕縛を命じられているジェレミアだったが、あまり気乗りがしなかった。
目障りなテロリストなど、回りくどいことをせずに、さっさと殺してしまえばいいと、ジェレミアは考えている。
そっちの方が、よっぽど自分の性に合っている。
だから、「ゼロ」の捕縛には、どちらかと言えば、消極的だった。
しかし、総督の命令ならば、仕方がない。

「・・・で、総督のご命令とは、なんなんだ?」
「それが、ゼロを名乗る者から、予告状が届いたらしいのですが・・・」

ジェレミアは、「またか」と、うんざりとした表情を浮かべる。
これまでにも、何度かそうしたものが、政庁に届けられたことはあったが、その全てが悪戯だったり、ゼロの名前を使った愉快犯だった。
その度に、借り出されるこっちの身にもなって欲しいものだと、ジェレミアは顔を顰める。

「それが本物だと、何か証明できるものでもあるのか?」
「いえ。・・・しかし今回は、総督宛ではなく、クロヴィス殿下宛に、殿下個人のメールボックスに直接送りつけられたらしいのです」
「そんなはずはないだろう?殿下のアドレスなど、私ですら知らないんだぞ?なぜそれをテロリストが知っているんだ!?」

呆れたようにそう言ったジェレミアは、ヴィレッタの言葉をまったく信用していない。

「それはなにかの間違いだ」

そう断言したジェレミアに、ヴィレッタは真面目な顔を崩さなかった。

「・・・まさか、本当のこと・・・なのか?」
「はい。直接殿下からお聞きしたわけではありませんが、どうやら本当らしいです。クロヴィス殿下は酷く錯乱・・・いえ、困惑しておいでのご様子で、部屋から一歩の外に出ていらっしゃらないとか・・・。殿下の側近の方達が心配しておりました」

ジェレミアは、唸った。
もしそれが本当のことなら、予告状は間違いなく、本物のゼロからなのだろう。
これまでの行動を鑑みれば、それくらい大胆不敵なことを、ゼロは意図も簡単にやってのける。
だとしたら、その予告を放っては置けない。
「仕事が手につかない」などと、言っている場合ではなくなっていた。

「ヴィレッタ。その予告の内容を、詳しく聞かせてくれ」
「は!」

ようやく、仕事をする活力を取り戻したジェレミアに、ヴィレッタは心の中で安堵した。